~光る君へ~
愛子さま立太子への祈念と読む「源氏物語」
第31回 第三十一帖<真木柱(まきばしら)>
「光る君へ」第13回、道長の正妻・倫子(黒木華さん)は道長の文箱から、まひろの書いた漢詩の恋文を見つけて「これ、何て書いてあるか読める?」と当の本人に尋ねた後、「私には一通も文を下さらず、庚申待ちの夜に訪ねてみえたの、突然」と嘆いていました。
庚申待ちの夜に「左大臣家の一の姫に婿入りすることとなった」とまひろに告げつつ「妾でも良いと言ってくれ」と願っていた道長は「私は私らしく、私の生れてきた意味を探して参ります」という返事を聞いて落胆、その足で倫子のもとへ行き、初めて関係を結びます。
倫子の父・源雅信(益岡徹さん)が、死の間際まで道長と娘の結婚に「不承知!」と呟いていたのは、突然、道長に掌中の玉を奪われた悔しさかもしれません。
今回は、大切なものを突然、奪われてしまうさまをみてみましょう。
第三十一帖 <真木柱 まきばしら(檜や杉で作った柱 髭黒の右大将の娘の歌より)>
「帝がお聞きになっては恐れ多いので、このことは内密にするように」光る君が諫めても、髭黒の右大将は隠せそうにありません。通い始めて日が経っても玉鬘は打ち解けず「心外にも辛い宿世だった」と悩んでいますが、右大将は並々ならぬ縁を嬉しく感じています。
見れば見るほど美しい玉鬘が「他の男のものになっていたら」と思うだけで胸がつぶれそうな右大将は、縁結びの御利益のある石山寺の観音菩薩と、手引きをした女房の弁のおもとを並べて拝みたいほどですが、玉鬘に疎まれた弁のおもとは、六条院に出仕せず引き籠っています。
光る君は玉鬘を奪われて納得がいかず悔しいのですが、今さら「不承知」と言っても、右大将に気の毒なので仕方なく、婚礼の儀式を立派に行い、婿として大切に扱います。玉鬘の父の内大臣は「宮仕えよりは無難だろう。弘徽殿女御がいて、私は玉鬘の世話は出来なかったのだから」と内々に言い、光る君の心遣いに感謝しました。
光る君は世間から疑われていた関係が潔白となり、紫の上にも「あなたも疑っていましたね」などと言いますが、まだ心の中では思い切れず、右大将がいない昼頃に玉鬘を訪ねます。近頃、武骨で平凡な夫を見馴れた玉鬘は、光る君の得も言われぬ魅力を思い知り、心外な結婚をした自分の身の置き所がなく涙がこぼれます。
「今となれば私の愚かしさも安全さも、類なきものとお分かりになったと心強く思っていますよ」と光る君が言うと、玉鬘は辛そうにしています。光る君は気の毒で「帝の仰せ言は畏れ多く、やはり少しでも参内しましょう」などと伝えました。
髭黒の右大将は玉鬘の参内に心中穏やかではないものの、そのついでに自邸に退出させようと思いつきます。女性のもとに通うのに馴れず、六条院で気づまりだったので、自邸を修理し玉鬘を迎える準備を急ぎました。
右大将の正妻は人より劣ってはおらず、父・式部卿宮が大切に育てたので世間から重んじられ、容貌も美しかったのですが、執念深い物の怪にとり憑かれ、この頃は常人のようではなく正気を失っていることも多いのです。夫婦仲も疎遠になって長いものの、正妻を並ぶ者なき立場として扱っていた右大将ですが、珍しく心を移した玉鬘が人より優れている上に、光る君と共にいて清らかなままだったのが有難く、愛しさが増すのも道理なのでした。
右大将の正妻は、式部卿宮から実家に戻るように勧められても「夫に捨てられて親と顔を合わせるなんて」と悩むうちに、ますます狂おしくなり病の床についています。本来は物静かで気立てが良いのに、物の怪のせいで時おり人に疎まれる振る舞いをしてしまい、身なりも構わず、鬱々と過ごしていました。
右大将は正妻が気の毒なのですが、日が暮れると心が浮き立ち、玉鬘のもとへ行こうと思う間に雪が降り出します。この空模様で出かけるのも人目が煩わしい上に、今日は正妻が穏やかで、さりげなく過ごしているので、右大将は心苦しく「どうしたものか」と思い乱れ、格子(格子状の板戸)などを上げて空を眺めています。
「出かけなくても心が余所にあるなら、かえって辛いのです。余所でも思って下さるなら涙に濡れた私の袖の氷も解けるでしょう」と穏やかにいう正妻は、火取り香炉(香を薫きしめるのに用いる香炉)を持ってこさせて、夫の衣に香を薫きしめます。右大将は心変わりを反省しつつ玉鬘のもとへ行きたいと気持ちが逸り、わざとため息をつきながら着替えて、小さな香炉で袖の中にも香を薫らせます。
正妻は物思いに沈みながら脇息(きょうそく 脇に置いてもたれかかる用具)に寄りかかって臥していましたが、突然、起き上がり、香炉を取り上げて夫の後ろに寄り、さっと香炉の灰を浴びせかけました。驚いて茫然とする右大将は、細かな灰が目にも鼻にも入り、着替えた衣も脱ぎますが、灰が鬢にも入り込み、六条院へ出かけられなくなります。物の怪による乱心といえども正妻が疎ましく、気の毒に思う心も失せてしまいますが、右大将は事を荒立てないように気を鎮めて、僧を呼んで加持祈祷を行わせました。
「昨夜の出来事が伝わったら、玉鬘にも疎まれて私は中途半端な立場になってしまうだろう」とため息をつきながら、ようやく右大将が六条院に出かけると、一夜逢わなかっただけの玉鬘は一段と美しさが増したようです。ますます玉鬘しか愛せなくなった右大将は六条院に長く留まるようになりました。
正妻のところでは加持祈祷が続いていますが、物の怪が凄まじく現れていると聞いて、右大将は自邸に戻った時も正妻とは離れた部屋にいて、十二、三歳の娘と、その下の二人の息子にだけ会っています。その様子を聞いた式部卿宮は「私が生きている限りは辛抱して右大将に従うこともないだろう」と急に迎えを差し向けました。正妻は少し正気になっていた折に迎えが来たと聞き「強いて留まり、夫に捨てられてから諦めるのは、もっと世間の物笑いになるだろう」と実家に戻る決心をします。
娘は右大将にとても可愛がられていたので「もう二度とお会いできなくなるのではないかしら」と思い、檜皮色(ひわだいろ 檜の樹皮のような黒ずんだ赤茶色)の紙を重ねて歌を書き、いつも寄りかかっていた東側の部屋にある柱のひび割れた隙間に、笄(こうがい 髪をかき上げるための細長い棒状の道具)で押し込みました。
今はとて宿離(やどか)れぬとも馴れ来つる 真木の柱はわれを忘るな 真木柱
今はもうこれまでと家を離れても 馴れ親しんできた真木柱よ 私を忘れないで (これ以降、髭黒の右大将の娘を真木柱と呼びます)
正妻の退去を聞いた髭黒の右大将は真木柱の歌を見て恋しく、式部卿宮の邸に行きますが娘には会えません。十歳で童殿上(わらわてんじょう 元服前の貴族の子弟が宮中の作法を見習うために殿上(宮中)の奉仕を許されること)している長男と、八歳の次男を車に乗せて自邸に連れて帰った右大将は、心配ごとが増えながらも玉鬘を見れば心慰められるのでした。
あれこれの騒ぎで玉鬘の気分が晴れないのを可愛そうに思った右大将は、年明けに参内させました。承香殿(しょうきょうでん 後宮の殿舎の一つ)の東側に部屋を賜った玉鬘を訪れた帝は言いようもないほどの美しさで、光る君と瓜二つです。帝が思いがけない結婚への恨み言を優しく伝えると、玉鬘は扇で顔を隠し返事もできません。
右大将は帝が玉鬘の部屋を訪れたと聞いて落ち着かず、退出を急がせました。「仕方がない。二度と参内させないと言われると困るから」と退出を許しつつ帝はとても残念に思います。右大将は「急に風邪を引いたので気楽な自邸で養生する間、余所にいては気がかりなので」と言い訳をして、玉鬘を引き取ってしまいます。光る君は、あまりにも突然で不本意でしたが、どうしようもありません。玉鬘は心外な結婚を情けなく思いますが、右大将は大切な宝を盗んできたようで嬉しく、ようやく心が落ち着いたのでした。
その年の十一月に、玉鬘は可愛らしい男の子を産みました。右大将は、思い通り幸せになったと息子を大切にします。内大臣も娘の玉鬘の運勢が開けてきたと喜びますが、弟の柏木の中将は「帝の御子だったら、どんなに面目をほどこしたでしょう」などと勝手なことを言っています。尚侍の職務を自邸で行う玉鬘は、もう宮中に参内することはなさそうです。
***
光る君にとっては青天の霹靂、まさにダークホースの髭黒の右大将が玉鬘を手中に収めました。かつて光る君は王命婦という女房の手引きで父の桐壺帝から藤壺を奪いました。同じ手口による弁のおもとの手引きで、光る君が右大将に玉鬘を奪われたのは、かつての「罪」に対する「罰」を紫式部が描き始めたようにみえます。
玉鬘が疎んじる右大将は、実際、夫としてはどうなのでしょうか。「光る君へ」第26回で、まひろが夫の宣孝(佐々木蔵之介さん)と言い争ったあげくに灰を投げつけたシーンは、髭黒の右大将の正妻が香炉の灰を浴びせるエピソードの再現と話題になりました。正妻の年齢は35~37歳、今で言うとプレ更年期にあたり、三人の子を産んだことからも、ホルモンバランスの乱れによって、産後うつが長期化しているのかもしれません。右大将が30代の正妻を「嫗(おうな 老婆)」と呼ぶのは残酷ですが、心身の不調は加持祈祷で対処、または「光る君へ」で隆家(竜星涼さん)が目を患って大宰府に赴くほど治療を受けるのが困難だった当時、正妻の症状が夫婦関係を壊すまで悪化するのも仕方のないこと。右大将が長年、物の怪が憑いた後も自邸で正妻と連れ添ってきたのは、誠実であったようにも感じます。
さらに、当時は男性が女性の実家に通って世話をしてもらう場合が多く、いわゆる「実家が太い」女性を男性は選んでいたようです。光る君の正妻だった葵上が生きていた頃は父の左大臣が世話をしていましたし、「光る君へ」で、道長は正妻の倫子の実家・土御門院のバックアップもあって出世することができました。
右大将の正妻は父親の式部卿宮がまだ生きているので実家に戻れましたが、末摘花や花散里のように、父親の死後、落ちぶれて光る君に引き取られた女性もいます。実の父・内大臣にも、養父の光る君にも、中途半端にしか後見してもらえない玉鬘を自邸に引き取るのは、政治的メリットも無く、奇特なこと。光る君には気の毒ながら、玉鬘は案外に良い夫と巡り合ったと言えそうです。
【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>
第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>
第10回 第十帖 < 賢木 さかき >
第11回 第十一帖<花散里 はなちるさと>
第12回 第十二帖<須磨 すま>
第13回 第十三帖<明石 あかし>
第14回 第十四帖<澪標 みおつくし>
第15回 第十五帖<蓬生・よもぎう>
第16回 第十六帖<関屋 せきや>
第17回 第十七帖<絵合 えあわせ>
第18回 第十八帖<松風 まつかぜ>
第19回 第十九帖<薄雲 うすぐも>
第20回 第二十帖<朝顔 あさがお>
第21回 第二十一帖<乙女 おとめ>
第22回 第二十二帖<玉鬘 たまかずら>
第23回 第二十三帖<初音 はつね>
第24回 第二十四帖<胡蝶 こちょう>
第25回 第二十五帖<蛍 ほたる>
第26回 第二十六帖<常夏 とこなつ>
第27回 第二十七帖<篝火 かがりび>
第28回 第二十八帖 <野分 のわき>
第29回 第二十九帖 <行幸 みゆき>
第30回 第三十帖 <藤袴 ふじばかま>
無骨な髭黒の右大将が玉鬘に恋焦がれてついに手中に収めたというところだけ見れば、「純情」が成就したという感じもしなくはないのですが、右大将と正妻の間はこじれるし、肝心の玉鬘は全然なびいていないし、光る君は玉鬘との仲を疑われなくなってよかったと思いながらもなんだか未練タラタラだったりと、様々な人の思いが交差して、ちっとも「めでたしめでたし」とはならないところが絶妙におもしろいですね。
さて、今年の大河ドラマ『べらぼう』、蔦谷重三郎も興味津々ですが、愛子さま立太子への祈念と共に読み進められる『源氏物語』こちらもさらにお楽しみに!